人はなぜ恋に落ちるのか――ヘレン・フィッシャーが解き明かした「恋愛する脳」

「もう若くないから、恋愛なんて関係ない」
「結婚しているのに、なぜ誰かに心が動くのだろう」
「夫婦仲が悪いわけではないのに、別の誰かと話したい」

既婚女性の中には、こうした感情に戸惑った経験を持つ人も少なくないだろう。恋愛感情は、未婚の若い男女だけのものではない。結婚後も、子育て後も、仕事に追われる日々の中でも、人はふと誰かに惹かれる。では、なぜ人は恋に落ちるのか。

この問いに、脳科学と進化人類学の視点から挑み続けてきたのが、アメリカの人類学者ヘレン・フィッシャーである。彼女は長年にわたり、恋愛中の男女の脳をMRIで調べ、「恋愛は単なる感情ではなく、人間に備わった強力な生存本能の一つである」と説明してきた。[1][2]

恋愛は、理性で制御できるようでいて、思うようには制御できない。会いたくてたまらない、相手の言葉に一喜一憂する、急に美しくなりたいと思う、スマートフォンを何度も見てしまう――そうした状態は、脳内で起きている化学反応と深く関係している。

特に既婚者の場合、「夫婦関係」と「恋愛感情」が必ずしも一致しないことに苦しみや罪悪感を抱きやすい。しかし、ヘレン・フィッシャーは、人間の恋愛感情は一枚岩ではなく、「性愛」「恋愛」「愛着」という三つの異なる脳システムから成り立っていると考えた。だからこそ、長年連れ添った配偶者に深い愛着を持ちながら、別の誰かに恋愛感情を抱くことも、人間の脳の仕組みとしては起こりうるというのである。[3][4]

恋愛の感情を、「道徳的に正しいか間違っているか」だけで切り分けるのではなく、「なぜその感情が生まれるのか」という視点で見つめ直すこと。それは、既婚者同士の出会い、夫婦関係の見直し、セックスレス、孤独、共感不足、精神的なつながりといったテーマを考えるうえでも、大切な視点になる。

恋愛は「感情」ではなく「欲求」である

ヘレン・フィッシャーは著書『Why We Love』の中で、恋愛を「感情」ではなく、「欲求」あるいは「衝動」に近いものだと述べている。[1]

悲しみや怒りは、ある出来事が終われば少しずつ収まる。しかし恋愛感情は違う。恋に落ちると、人は特定の相手のことばかり考え、四六時中頭から離れなくなる。眠れなくなるほど相手を思い、LINEの返信ひとつで心が揺れる。会えないと苦しく、会えると幸福感に満たされる。

こうした状態は、脳内の報酬系と呼ばれる領域が強く活性化しているために起こる。恋愛中の脳では、快楽やモチベーションに関係するドーパミンが大量に放出され、相手を「特別な存在」として認識する。つまり恋愛とは、「この人を手に入れたい」「この人に選ばれたい」という非常に強い動機づけなのである。[5]

ヘレン・フィッシャーは、恋愛状態の脳を「依存症に近い」とも表現している。恋をすると、人は相手からの反応を求め続ける。返信が来れば安心し、来なければ不安になる。これはアルコールやギャンブルの依存症と同じように、脳が「報酬」を求めて繰り返し刺激を欲するからだ。[2]

だからこそ、人は「恋なんてしてはいけない」と頭で思っていても、簡単には気持ちを止められない。既婚者の恋愛や、既婚者同士の出会いに戸惑う人が多いのも、恋愛感情が理性だけでは整理しきれない脳の反応だからである。

男性はなぜ恋に落ちるのか

一般には、「女性のほうが恋愛体質」「男性は恋愛より性欲」と考えられがちである。しかし、ヘレン・フィッシャーはむしろ、男性のほうが恋に落ちやすく、恋愛に理想を抱きやすいと指摘している。[3]

彼女の調査では、男性は女性よりも早く恋に落ち、「愛している」と口にするのも早い傾向があった。男性は視覚情報に強く影響されやすく、「この人だ」と思うと一気に感情が高まる。外見だけでなく、笑顔や話し方、安心感、尊敬できる要素など、さまざまな要因が重なることで、一気に相手を理想化するのである。[10]

一方で、男性は恋愛相手を精神的な支えとして捉えやすい。仕事の悩み、孤独感、自信の低下を抱えたとき、誰かに認められたい、理解されたいという欲求が強まり、それが恋愛感情として現れることがある。

とくに既婚男性の場合、家庭内では「父親」「夫」「稼ぎ手」としての役割が中心になり、自分自身が一人の男性として扱われる機会が減る。その結果、自分を異性として見てくれる女性に出会ったとき、強く惹かれることがある。

既婚者マッチングや既婚者同士の交流の場で、男性が「話を聞いてほしい」「自分を理解してほしい」と求める背景にも、こうした心理がある。性的欲求だけではなく、「自分を価値ある存在として見てくれる相手を求める気持ち」が、恋愛感情の引き金になるのである。

女性はなぜ恋に落ちるのか

では、女性はなぜ恋に落ちるのか。

ヘレン・フィッシャーは、女性は男性より慎重に恋愛に入る傾向があるとしながらも、いったん心を許した相手には深く強い感情を抱きやすいと述べている。女性は「この人は信頼できるか」「自分を大切にしてくれるか」「安心できるか」を重視する。見た目や条件だけではなく、会話の心地よさ、価値観、優しさ、誠実さ、感情を共有できるかどうかが大きな要素になる。[3][7]

特に既婚女性の場合、「恋愛したい」というより、「自分をわかってくれる人がほしい」と感じているケースは少なくない。夫婦仲が悪いわけではなくても、日常会話が減り、女性として扱われなくなり、家庭内で役割だけが残ると、感情的な孤独が積み重なっていく。

そのようなときに、自分の話を丁寧に聞いてくれる人、趣味や価値観が合う人、自分を女性として見てくれる人に出会うと、心が動くことがある。それは単なる刺激や浮気願望ではなく、「自分の存在が再び誰かに必要とされた」という感覚に近い。

既婚者の恋愛や既婚者向けマッチングサービスに関心を持つ女性の中には、「恋愛したいわけではない」「ただ話せる相手がほしい」と語る人も多い。しかし実際には、共感や承認を通じて、ゆっくりと恋愛感情が育っていくこともある。ヘレン・フィッシャーの研究は、そうした感情が決して特殊なものではなく、人間の脳に組み込まれた自然な反応であることを示している。

恋愛の3つの要素を読み解く

ヘレン・フィッシャーが最も有名なのは、人間の恋愛には三つの異なるシステムがあると提唱したことである。[4][9]

第一は「性愛(lust)」である。これは性欲や身体的欲求に近く、主にテストステロンによって駆動される。異性に触れたい、魅力を感じる、性的に惹かれるといった感情はここに含まれる。

第二は「恋愛(romantic love)」である。相手のことばかり考えてしまう、会いたくて仕方がない、独占したい、相手に認められたいという強い衝動で、ドーパミンが大きく関与している。恋愛初期の高揚感や没頭感は、このシステムによるものだ。

第三は「愛着(attachment)」である。長年一緒にいて安心する、家族としての絆を感じる、そばにいると落ち着くという感覚で、オキシトシンやバソプレシンが関係している。結婚生活や長期的なパートナーシップを支えるのは、この愛着のシステムである。[9]

重要なのは、この三つは必ずしも一致しないという点である。

たとえば、配偶者には深い愛着を感じているが、恋愛感情は薄れていることがある。逆に、愛着はないが強い恋愛感情だけが生まれることもある。さらに、性的魅力だけを感じる相手もいる。

ヘレン・フィッシャーは、「人は同時に複数の人に対して異なる感情を抱くことがある」と指摘している。長年連れ添った夫に対しては愛着があり、別の男性には恋愛感情を抱き、さらに別の相手に性的魅力を感じることもありうる。それは人格の問題ではなく、人間の脳が複数のシステムで動いているからだ。[1][9]

既婚者が抱える「夫は嫌いではない。でも満たされない」「家庭は壊したくない。でも誰かに会いたい」という感情も、この三つのシステムを理解すると整理しやすくなる。恋愛感情が生まれること自体を否定するのではなく、その感情の正体を理解することで、自分の気持ちを冷静に見つめられるようになる。

恋愛は人生を動かす力になる

ヘレン・フィッシャーは、恋愛を「人間の人生を前に進めるための強力なエネルギー」だと考えていた。恋をすると、人はきれいになろうとする。新しい服を買い、髪型を変え、仕事を頑張り、会話を学び、人生をもう一度動かそうとする。

既婚女性が恋愛感情を抱くことは、必ずしも家庭を壊したいという意味ではない。長い人生の中で、自分の女性性や感情を再び取り戻したい、自分らしさを感じたいという欲求が、恋愛という形で表れることもある。

もちろん、既婚者の恋愛には現実的な問題も伴う。しかし、人が誰かに惹かれる理由を知ることは、自分を責めすぎないためにも必要だろう。

恋愛は、不完全な日常の中に突然現れる。だからこそ苦しく、だからこそ人は惹かれる。ヘレン・フィッシャーの研究は、「恋に落ちる自分」を否定するのではなく、人間という存在の自然な仕組みとして理解する視点を与えてくれる。

参考文献・注釈

[1] Helen Fisher, Why We Love: The Nature and Chemistry of Romantic Love, Henry Holt and Company, 2004.
発表年:2004年
出典URL:https://helenfisher.com/books/why-we-love/

[2] Helen Fisher, “The Brain in Love”, TED2008.
発表年:2008年
出典URL:https://www.ted.com/talks/helen_fisher_the_brain_in_love

[3] Helen Fisher, Anatomy of Love: A Natural History of Mating, Marriage, and Why We Stray, W. W. Norton & Company, 2016.
発表年:2016年
出典URL:https://wwnorton.com/books/9780393285222 [4] Helen Fisher, “Love, Lust and Attachment”, YouTube.
発表年:2013年

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